1.愛人契約の成立

肉の記憶 麻里子二四歳

休日の昼下がり、初夏の街路樹の緑に彩られた大通りは家族連れや若者たちで賑わっていた。その通りに面したオープン・カフェの前を通りかかった山内鉄男は、突然呼び止められた。

「山内さん」

声のする方向を見ると、カフェのテーブル越しに、先月退職したばかりの小暮麻里子が微笑んでいた。鉄男が営業部長として勤務している広告代理店は社員四〇名ほどの中小企業で、安月給とサービス残業が業界でも有名な会社だ。そのため若い社員の定着率が低く、部署によっては毎月歓送迎会が開かれる始末だった。そんななか営業部のデスクとして働いていた小暮麻里子も、入社後僅か一年余りであっさりと退職したのだった。短大卒の転職組として二四歳で入社した麻里子は、面倒な仕事でもいやな顔ひとつせずに黙々とこなす優秀なスタッフだった。それどころか裏表がなく、終始人懐っこい笑顔をみんなに振りまく麻里子は男女を問わずウケが良く、彼女の退職にショックを受けた若手の男性社員も少なくなかった。

その麻里子が胸の前に大きなロゴが書いてある赤い長袖のTシャツを着て、カフェのテーブルの向こう側で愛くるしい笑顔を輝かせていた。軽くウェイブのかかった髪は肩すれすれのショートカットで、会社にいた時は長く伸ばし真ん中で分けていた前髪も無造作に短く切られている。その分おでこを多く出しているせいか、麻里子はまるで大学生のように若返って見えた。しかも驚いたことに、胸の前には小さな子どもを抱いているのだった。

「えっ。小暮君、子供がいたのかよ」

「違いますよ、姉の子供。やだ、山内さん。変なこと言わないでください」

麻里子は子供を抱いたまま立ち上がると、鉄男の前に歩み出てきた。身長一五六センチと小柄な麻里子は一八〇センチの鉄男と並ぶと、肩辺りまでしかない。鉄男は背を屈めて、麻里子が抱きかかえている子供の顔を間近にのぞき込んだ。確かにどちらかと言えば狸顔の麻里子とは明らかに違う、キツネ顔の子供だった。

「じゃあ、今日はお姉さんの代わりに、この子のお守り?」

「いいえ、姉も一緒。今、トイレに行っています」

鉄男が顔を近づけたのに驚いたのか、子供が急に麻里子の腕の中で暴れ始めた。小さな手が麻里子の胸の膨らみを捉えると、それをぐいと押し上げた。Tシャツの胸のロゴが歪み、なかに隠されていた乳房の膨らみがあらわになった。

(おお、意外に巨乳だな。Eカップはありそうだ)

在職中には気にもとめていなかった麻里子の隠れ巨乳ぶりに、鉄男は内心ドキリとした。

「もう、だめだったら」

麻里子は子供に優しく微笑みかけると、あやすように二度三度と上下に揺らし、子供の手を胸から外した。

「この子、女の子なのに、油断するとすぐ胸をつかんでくるんです」

くったくなく笑っている麻里子に、鉄男は心の中を読み取られたかのようにドギマギとなって、慌てて背を伸ばし、麻里子の胸から視線を外した。

そこにちょうど麻里子の姉が戻ってきた。

「おねえちゃん、こちら前の会社でお世話になった部長の山内さん」

そう紹介された鉄男は、さわやかな営業スマイルで挨拶した。

「どうも、初めまして山内です」

しかし麻里子の姉は、鉄男を疑わしそうな目で睨みつけながら、無言で会釈するのみだった。

驚いたことに小暮姉妹は、背丈以外は全くといっていいほど似ていなかった。麻里子の特徴は黒目がちの愛らしい瞳とぽってりとした肉厚の口唇だ。笑うと、大きな目が人懐っこくタレ目ぎみになって、表情の中に溶けていく。一方、肉厚の口唇はあざやかに口角が上がり、ハート型に開いた口元から白い前歯が可愛くのぞく。愛くるしい笑顔は、誰しもを幸せな気分にさせるのだった。そんな麻里子とは対照的に、姉は狐のようにつり上がった細い目と口角の下がった薄い口唇をしていて、薄幸で意地悪そうな感じがする女だった。しかも肩まわりや胸、お尻、太腿など、女性的な柔らかさを感じさせる麻里子に比べ、姉は痩せて骨ばった、貧相な体つきをしていた。

「じゃあ、行くから」

ぶっきらぼうにそう言い放った姉はテーブルの傍らに立てかけてあったベビーバギーを手際よく組み立てると、麻里子から受けとった子供を乗せ、振り向きもせず足早に去っていった。

無愛想に立ち去っていく姉を見送りながら、鉄男はなにか失礼なことをしたのではと不安を覚えた。

「オレ、なんか失礼なことしちゃったかな」

「気にしないでください。姉はいつも無愛想なんです。特に初対面の人にはあんな感じなんです」

「ふーん、そうなんだ。それにしても、君とお姉さんは似てないね」

「小さい頃からよく言われます。姉は父親似で、マリはお母さんっ子だって。そんなことより山内さんは、こんなところで何をしてるんですか?」

「いま?道場の帰りだよ」

鉄男は中学から大学までずっと柔道部で、高校三年と大学四年の時にはキャプテンも務めていた。その関係から大学を卒業してからも、親しい先輩が指導している警視庁の道場に通い続けているのだった。もちろん選手として通用するわけではなかったが、若い警察官たちと乱取りで汗を流すのは爽快で、ストレス発散にはもってこいだった。

「相変わらず山内さんは不思議ですよね。会社のみんなも言ってましたよ」

「ええ、なんて?」

「四五歳にもなって、未だに柔道に熱中して、折角の休日を殆ど潰してるって。普通のサラリーマンは、その歳で柔道はやりませんよ」

「独身だから、休みの日に他にやることないんだよ」

「なるほど、それもそうですね」

くったくのない麻里子の受け応えぶりに、鉄男もつられて笑った。しかし言われてみると麻里子の言うことは確かで、十年前に離婚してから手持ち無沙汰になったせいか、柔道に対する熱が一段と上がったのは事実だった。

「それより、小暮が子持ちになっていたとか、山内さん、会社で変な噂を立てないでくださいよ」

「言わないよ、そんなこと」

「よかった。じゃあ、失礼します」

麻里子はペコリと頭を下げると、鉄男が来た方へと歩き出していった。その後ろ姿を鉄男は食い入るように見つめた。ぴったりとしたジーンズに包まれている、まるまると膨らんだお尻を眺めながら、鉄男はさっき子供が押し上げた麻里子の胸の丸みを思い出した。そして改めて後ろ姿をじっくりと眺めてみると、麻里子は実に均整のとれたプロポーションをしているのだった。そのことは本人も自覚しているのだろう。普通、小柄な娘がジーンズを履くときはヒールの高い靴を合わせ、背を高く見せたり足を長く見せたりするものだ。ところが彼女は踵がペタンコのスニーカーを履いている。それは自分の体のバランスの良さ、足の長さに自信を持っている証拠に思えた。

(そういえば小暮麻里子は隠れ巨乳でお尻もプリプリ、背は小さいけど足が長くてスタイルが抜群だとか、飲み屋で騒いでいた奴がいたなぁ。全然気が付かなかったけど、確かにそそる体をしている娘だな)

鉄男は意を決すると、麻里子のあとを追いかけた。

「小暮くん」

振り返った麻里子が、追いかけてきた鉄男を認めてきょとんとした。

「おい、折角だから飯でも付き合えよ。寿司でも、焼肉でも、好きな物をごちそうするよ」

麻里子の顔が溶けるように笑顔に変わった。

麻里子のリクエストで入ったお好み焼き屋で、二人はたらふく飲んで、食べた。

猛者揃いの柔道場の酒豪番付で横綱クラスの鉄男にとって、生ビールはジュースに等しかったが、麻里子もなかなかいける口らしく、次々にジョッキを干していった。鉄男の前で、よく食べ、よく飲み、よく笑う麻里子は、眩しいばかりの輝きを放っていた。何でもおごると誘われて、庶民的なお好み焼きを選んだところも鉄男には好ましかった。

時計の針が七時を過ぎた頃、そのまま別れ難くなった鉄男は二軒目にさそった。そして二人は個室居酒屋に席を移し、今度は日本酒をやりはじめた。

「しかし、小暮君がこんなに飲むとは知らなかった」

「山内さんには負けますよ。もうちゃんぽんしているから、私は酔っていますけど、山内さんは全然平気じゃないですか」

ほんのりと目のふちを赤くした麻里子が、鉄男の顔を覗きこんできた。吸い込まれそうな大きな瞳と全身から立ち上る色気に、鉄男はドキリとした。

「どうでもいいけど、その山内さんって呼ぶのやめてくれないか。もう上司でも部下でもないんだから」

「ええ?じゃあ、なんて呼びましょう?例えばヤマちゃんとか?」

麻里子は自分で言って、自分で笑い出した。

「なんかスナックの常連みたいでいやだな。せめて、鉄男の鉄ちゃんにしてくれよ」

「わかりました。鉄ちゃんにしますけど、じゃあ、私の呼び方も変えて下さいよ」

「普通はなんて呼ばれているの?」

「マリマリか麻里子ですけど…、麻里子にしてください」

「呼び捨てでいいの?」

「いいですよ」

「でも、一緒に住んでいる彼氏が、麻里子って呼んでるんじゃないの?」

「いやだ、彼氏のこと、知ってるんですか?」

会社で男だけの飲み会なると、話題は仕事の話、そして女性社員の噂になるのが常だった。その情報によれば、麻里子は短大時代から付き合っている彼氏と同棲していると噂されていた。

「知ってるさ。彼氏はミュージシャンなんだろ?」

「何でそこまで知ってるんですか?びっくりした。鉄ちゃんは油断できないなぁ」

日本酒の酔いが回ってきたのか饒舌になった麻里子は、自分から同棲中の彼氏の話をしだした。ミツオという名の彼氏は、麻里子より一つ下の二四歳で、未だに売れないバンドでドラムを叩いていた。そもそも短大時代に偶然行ったライブでミツオに一目惚れした麻里子が、ミツオの追っかけとなり、厳しい競争を勝ち抜いて彼女の座を勝ち取ったという。そして短大を卒業して都内に就職した麻里子が、関東近郊県にある実家を出て東京で一人暮らしを始めると、ほどなくミツオが転がり込んできた。そこから始まった同棲が今につながっているのだった。

「狭いアパートで四年も一緒に住んでいると、空気みたいで何のトキメキもないですね」

「彼氏は働いてないの?」

「全然。働く気すらないみたい。家賃も生活費も私持ちで、自分は毎日お酒飲んで。きっと隠れて合コンとかもバンバン行ってますよ。ミュージシャンはモテますからね」

「それじゃ、ヒモじゃないか」

「うーん、そうともいいますね」

そう言うと、麻里子はちょっと寂しげに笑った。

「だったら別れればいいのに」

「そうもいかないんです。いろいろしがらみもあって…、実は借金とかもあるし。さっき姉に会ったのもお金の話です。ちょっと借りたくて、でも親には言えないし。実は会社を辞めたのも、仕事は楽しかったし、スッタッフの皆さんも良い方だったけど…」

「うちは給料安いからね」

鉄男がそう話のオチを引き受けると、麻里子はため息混じりに大きく頷いた。

「だからいよいよオミズでもしようかと思って、ただいま就活中です」

「キャバクラとか?」

「そうですね。二五歳はちょっとオバサンだけど、そこは適当にごまかして…。だっていくらお金が良くても、フーゾクをやる勇気はないからなぁ」

そう言って麻里子が笑った。

「そりゃそうだろ」

「でも、愛人だったらいいかも。素敵なおじ様が現れて、お小遣いをくれないかなぁ、なんてね。こう見えても私、結構、巨乳なんですよ」

意外な形でシモネタに流れてきた会話に、鉄男はムラムラしてきた。

「へー、巨乳なの。そんなふうに見えないなぁ。むしろ幼児体型っぽいけど」

鉄男が遠慮無く胸を舐めるように見ると、麻里子が怒った素振りで反論してきた。

「失礼ですね。大きいですよ、ほら」

そう言った麻里子は両手を胸に当てて、Tシャツの薄い布地の上から乳房を絞るように寄せ上げた。Tシャツの下に隠されていた、乳房の丸々とした膨らみがあらわになった。それはまるで両腕の間に大きなグレープ・フルーツを並べて抱えているかのようで、思わず手を伸ばし、ぎゅっと握りしめたくなるような膨らみだった。鉄男はゴクリと唾を呑み込んだ。

「ね。おっきいし、形もいいし。大概のおじ様はいちころですよ」

「因みにサイズは?」

鉄男は調子に乗って、ずけずけと質問した。

「ふふ、何カップか、当てて下さいよ」

「そうだな、Dかな?」

「はずれ」

「ええ!じゃあEカップ?」

「いいえFです。ネットに出ているグラビアタレントのプロフィールを見て下さいよ。Fはなかなかいませんから。しかも私のは正真正銘、天然で上げ底なし。アンダー七五のFで、しかも…垂れてない、はははは」

麻里子のあけすけな物言いに、鉄男も軽口を叩きたくなってきた。

「それは知らなかったな。麻里子は小柄で童顔だし、絶対、胸よりお腹の方が出ているペチャパイの幼児体型だと思っていた」

「でしょ。私は胸の大きいのを隠すのが上手いから、そう誤解している人が多いんです」

「そんなに巨乳なら、オレがお小遣い払っちゃおうかな?」

鉄男の大胆な発言に麻里子がぽかんとして、大きく目を見開いた。そして表情がみるみる笑顔に変わり、声を出して笑い出した。

「すまん。変なこといっちゃったな」

麻里子の笑い声で我に返った鉄男は、恥ずかしさにドギマギした。

「山内さん、私、冗談で言ってるんじゃないんですよ。本当にお金に困っているんです。私は本気なんですから、からかわないでください」

麻里子が笑顔を引き締めて、一途に見つめてきた。鉄男は一度咳払いをすると、その視線をしっかりと受け止めた。

「からかってない。オレも本気だ。例えば五万円でどうだ?」

「それって、一回会うお金ですか?」

「もちろん。その他の食事代なんかも、全部、オレが持つ」

「エッチもありですよね?」

「…ああ」

麻里子は一瞬視線を外し、宙を見据えた。そして、きっぱりと鉄男を見つめ直して言った。

「いいです。それでお願いします」

考えてもいなかった展開に、鉄男は心底驚いた。

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