4.強制愛人契約

隷属の沙希子

加藤探偵事務所は浮気調査から会社のスキャンダル、時には芸能ネタまでを追いかけるヤリ手の探偵事務所だった。オフィス街の古いビルの四階にある事務所は意外に大きく、常時二十人ほどの調査員を抱え繁盛していた。
社長の加藤征一郎は痩身で、白髪をオールバックにした紳士風の男だった。しかし、その優しいしゃべり方とは対照的に、油断のならない鋭い目つきをしていた。社内に社長の詳しい素性を知る者はなく、実は恐い筋にも気脈を通じているという噂だった。
スナック・マキエを飛び出し、この探偵事務所に職を得たタモツは、調査員として八年目の春を迎えていた。無口で粘り強いタモツの働きぶりは、いつしか社長の目にとまるようになり、今や調査員の中でもエースといわれるほどになっていた。
給料は安かったが、様々な業界に生きる人々のプライバシーに深くかかわる過程で、調査員は口止め料という名の裏金を手にするチャンスがあった。やろうと思えば依頼者を逆に恐喝するケースすらあるのだ。社長は、恐喝はもちろん、調査員が裏金に手を出すことを固く禁じていた。しかし社長のお気に入りとなったタモツには、次第に社長公認で裏金が手にできるようなおいしい仕事が回ってくるようになった。
だまってやらせておけば着たきり雀の不眠不休で働くタモツは、三度の食事も経費となる。住処は六畳一間の安アパートだ。ごくたまに安手の風俗に行く以外、酒にもギャンブルにも手を出さないタモツは、二九歳という年齢の割には十分すぎる金を貯め込むようになっていった。
そんなある日、テレビで人気がある弁護士の浮気調査を受け持ったタモツは、その弁護士が足しげく立ち寄るマンションの前で張り込みを開始した。狙いは弁護士とその愛人と思しき女性を写真に収めることだった。
川沿いの緑地帯に臨むそのマンションは、景観の素晴らしさと都心へのアクセスの良さを兼ね備えた高級物件だった。道路を隔ててマンションの入口を見渡せる河原の藪の中に陣取ると、タモツは人目につかない夕暮れから明け方まで、毎日カメラを抱えて石のようにうずくまった。一度決めたら目的を達するまで、体力の続く限り粘りまくるのがタモツのやり方だった。
夜の八時頃、マンションの玄関が開き、二人の男女の人影が現われた。タモツは慌ててレンズの焦点を合わせた。
まぶしいエントランスの光の中に、ショートカットの少女の姿が浮かび上がった。青っぽい小花柄のワンピースを着た少女はいかにも上品そうだった。抱きしめたら折れてしまいそうな少女の佇まいに一瞬で目を奪われたタモツは、珍しく仕事であることを忘れそうになった。慌ててそのかたわらにレンズを向けると、仕立てのいいスーツを着た白髪まじりの男が並んで立っていた。知的でやさしそうな男の顔は、タモツが狙っている弁護士とは別人だった。
(なんだ、ただの金持ち親子か)
カメラから目を離そうとした瞬間、少女がいきなり伸びあがると男の頬に軽く口づけをした。タモツは思わずシャッターを切った。キスをした少女は男を見上げて、なにかを囁いた。いつの間にか少女は男の手をしっかり握っている。その二人の様子を、タモツは漏らすことなく切り取っていった。
やがてタクシーが玄関前に入ってきて、二人の姿がその陰に隠れた。タクシーが走り去ると、少女だけが玄関の前に残されていた。走り去るタクシーを見送る少女の目から、涙がこぼれ落ちていく。タモツはファインダーの中一杯に広がった少女の泣き顔に向けてシャッターを切りながら、胸がドキドキと高鳴っていくのを感じた。それはタモツが今まで経験したことのない感情だった。
少女は流れる涙をぬぐおうともせず、車が完全に見えなくなるまで見送っていた。
結局、ターゲットである弁護士は現われぬまま、タモツは明け方にマンション前の藪から引き揚げた。ボロ雑巾のように疲れた身体を始発電車に揺られて帰って来たタモツは、六畳一間の自宅の万年床に横たわり、何気なくテレビをつけた。
いきなりテレビの画面に、昨晩、少女にキスされていた男の顔が大写しなった。
その男、田川佑介は日本を代表する大手銀行の頭取だった。しかも政官界からの肝いりで、政府の金融政策を取り仕切る委員長に任命される予定であることを、早朝のニュースがスクープ風に伝えていた。まばゆいばかりの経歴と知的で温厚な人柄で知られる田川は、テレビの中で早くも金融改革の旗手ともてはやされていた。
タモツは慌てて起きると、カメラに収めた画像をパソコンに映し出した。
(間違いない、田川だ。しかもこいつは絶対愛人。いや、もしかしたら援助交際かもしれないな)
パソコンに大写しになった少女の泣き顔を見ながら、タモツは確信した。
(女子高生とやってるくせに、何が金融改革だ。一発、強請ってやるか)
弾けるように起きあがったタモツは、早朝の電車に飛び乗ると、再びくだんのマンションへと戻っていった。
通勤の人混みをかきわけ駅からマンションへ向かう通りへ出ると、偶然、あの少女がこちらに向って歩いてくるのが見えた。ベージュ色のスーツに肌色のストッキングを履いた少女は、カメラで見たときより大人びていた。タモツは何気なくやり過ごしてから彼女を尾行し、その行き先からあっという間に身元を割り出していった。
福岡沙希子。年齢二二歳。
(へぇ、どうみても高校生ぐらいにしか見えないのに)
タモツは沙希子が大人の女であったことに驚いた。調べてみると沙希子はこの春大学を卒業し、金融系の財団に勤め出したOLだったのだ。事務所には内緒にしてタモツがさらに詳しく調べていくと、意外なことがわかってきた。川辺を見下ろすあの高級マンションが、田川ではなく沙希子の名義になっているのだ。
(こいつ顔に似合わず、しっかり貢がせてやがる。金を強請るのもいいけど、もっとヒドい目にあわせてやりたいな)
タモツの中にむらむらとした欲望が湧きあがってきた。今やタモツのターゲットは田川佑介から福岡沙希子へと完全にシフトしていた。
(この女をメチャメチャに苛めてやりたい)
万年床に寝転んだタモツの頭の中に、ある考えが浮かんできた。
「福岡さん」
会社からの帰り道に沙希子は突然呼びとめられた。振り向くと小柄でがっしりとした三十がらみの男が笑いかけている。
よれよれの黒い綿のジャケットの下に黒いTシャツを着てチノパンを履き、バッグをななめがけにしていた。色黒の丸顔には爬虫類のような細い目が光り、がっちりと大きな鼻、ぶ厚い唇、短く刈り込まれた髪の毛はデップで逆立っていた。
「こんにちは。私こういうものです」
男が差し出した名刺に「調査員 浦辺タモツ」という文字が大きく刷り込まれていた。
「すみません、急いでいるので」
本能的にかかわりを持ちたくないと感じた沙希子が会話を断ち切って歩き出そうとした瞬間、タモツが沙希子の目の前に一枚の写真を差し出した。その写真には、田川と沙希子のツー・ショットが収められていた。
沙希子は一瞬で写真の内容を悟り、凍りついた。
「こういう写真が手に入ったので、ちょっと話を聞いてもらえませんか」
沙希子の顔がみるみる青ざめていく。
タモツは沙希子の肩に軽く触れると、「あなたはいいけど、この写真が世の中に出ると彼は大変なことになる。三十分でいいから、話だけでも聞いて下さい」と囁いた。
タモツが少し力を入れて肩を押すと、沙希子が歩き出した。
職業柄初対面の人間と密談することが多々あるタモツは、密談場所にカラオケ・ボックスが役立つことを知っていた。どこにでもあるし、料金も安く、大抵は昼間から深夜まで営業している。しかも相手が女性の場合、連れ込みやすいという点でも便利だった。
カラオケ・ボックスの部屋の中で、タモツは沙希子と向かい合って座った。
店員が飲み物の注文を取り、それが運ばれてくるまで、タモツはわざと無言で通した。沙希子も、終始うつむいて無言だった。だがテーブルの下で、膝の上におかれた沙希子の手が恐怖と緊張で小さく震えているのを、タモツは本能で感じていた。
「あんた、田川さんの愛人だよね」
ビールを一口飲むと、タモツは突然切り出した。
「…」
モス・グリーンのワンピースの上に黒いサマー・カーディガンを羽織った細い肩先を強張らせて、沙希子は無言でテーブルの上のウーロン茶を見詰めていた。
タモツが一枚の写真をテーブルの上に置いた。それは田川と沙希子が手を繋いでいるものだった。さらに沙希子が伸びあがって田川の頬にキスしている写真を、その脇に並べた。沙希子はとっさに写真をつかむと、握りつぶした。
「福岡沙希子さんは田川佑介の愛人ですよね」
「違います」
沙希子が小さい声で震えながら答えた。
「じゃあ、なんでキスなんかしてるの?」
「…もうお別れしました。終わったことなんです」
絞り出すように答えた沙希子の瞳から、大きな涙が一筋こぼれ落ちた。
「なるほどね。色々込み入った事情があるんですね。でもあなたはともかく、田川さんを助けないと大変なことになっちゃいますよ」
タモツは作戦を変えて、親身な口調で語りかけた。あたかも窮地に陥った沙希子を助けるために手を貸すというような立場を装って、沙希子と田川の関係を巧みに聞き出していった。
大学に入って間もない頃、沙希子は両親を事故で亡くしていた。沙希子の両親は一人っ子の沙希子にかなりの財産を残したが、それを巡って親戚と骨肉の争いが勃発したのだった。その時、沙希子の味方となり、力を貸してくれたのが、父の親友でもある田川だった。四面楚歌だった沙希子を励まし、有能な弁護士を紹介してくれるなど、田川は親身になって世話をしてくれた。世間知らずで気弱な性格の沙希子が相応の遺産を相続できたのは、田川のお陰と言ってよかった。騒動が一段落した後、大学を卒業した沙希子の就職先を探してくれたのも田川だった。
一方、その間に田川も最愛の妻を突然、癌で亡くすという悲劇に見舞われていた。子供のいない田川は、妻がいなくなった喪失感を埋めるように、ますます沙希子を可愛がるようになった。死んだ父親のことが大好きだった沙希子も、いつしか田川にその姿を重ね、やがて淡い恋心さえ抱くようになっていった。
(沙希子も何か田川さんの役に立ちたい。田川さんを支えてあげたい)
妻を失った悲しみに暮れている田川を見て、沙希子はそう心に誓ったのだった。
そして昨年のクリスマスの夜に、二人は引き合うようにたった一度だけ過ちを犯してしまった。
沙希子にしてみれば、それは心から望んだことだったし、真っ直ぐに田川と結婚したいと考えていた。しかし田川はそれを拒んだ。
「沙希ちゃんには未来があるんだから、私みたいな老いぼれじゃダメだ」
田川は大人の分別を忘れて沙希子と関係を持ってしまったことを悔やんだ。それは業火に焼かれる地獄の苦しみでもあった。一方の沙希子は純潔を捧げた田川に、日蔭の女でもいいから一生ついていく覚悟を固めていた。
ところがこの春に銀行を定年退職し、公人から私人に戻るつもりだった田川に、金融改革のリーダーという思わぬ大役が巡ってきた。それは最前線に立つ金融マンとして生きてきた田川の人生にとって、ケジメともなる大仕事だった。
田川の仕事への決意を知った沙希子は、思い悩んだすえ、キッパリと別れることを決意した。田川への愛を一生の思い出として、心の奥底に封印したのだった。
「なるほど。でも世間はそれを愛人関係と言うよね。まあ、オレにとってはどうでもいいことだけど」
沙希子の話を親身なふりをして聞いていたタモツは、話が終わると一転して冷たい口調で言い放った。
「オレが聞きたいのは、それでこの写真をどうするかという具体的な話なんだよ」
沙希子は思い切って交渉を切り出した。
「幾ら欲しいのですか」
しばらく考えたタモツは意外なことを口にした。
「お金なんかいらないよ」
「えっ」
「ただ条件が一つある。アンタ、オレの愛人になってくれよ」
沙希子の顔がみるみる紅潮してきた。
「それほど大切な人の人生がかかっているのだから、アンタは何でも出来るはずだ。期間は半年でいいよ。半年間オレの愛人になってくれたら、この写真はなかったことにしよう」
思いもしなかったタモツの提案に、沙希子はどぎまぎした。その動揺につけこむように、タモツはゆっくりと沙希子を解きほぐしていった。
「さんざん世話になっておきながら、いざという時に自分は全く痛まずに、親が残した金で解決しようなんていうのはおかしいじゃないか。愛人じゃなくて、私は田川さんの恋人だったと心から思うなら、アンタの田川への愛の証をみせてくれよ」
タモツは沙希子を追い込んでいった。
「本当に愛しているなら、身体を張っても田川さんを守るはずだろ」
タモツの言うことは、ある意味正論に思えた。もともと気弱な性格の沙希子はタモツの論理と迫力に圧倒された。タモツが繰り返す「身体を張って田川さんを守る」という言葉がキーワードだった。
そしてついに、沙希子は半年限りという約束でタモツの愛人になることを泣く泣く承諾したのだった。
(モタモタしているから女をモノにできないのさ。ここぞという時に、女に迷う時間を与えちゃ駄目なんだ)
マキエの言葉通り、タモツは一気呵成に沙希子をものにしようと心に決めた。
「じゃ、いこうか」
タモツは沙希子の腕をつかむと、カラオケ・ボックスから連れ出した。
外に出ると沙希子が腕を振り払ってきた。
「離して下さい。逃げませんから」
タモツは沙希子の顔をじっと見つめた。いまにも泣きだしそうな瞳の中に、女の決意が見えた。
「ルールを教える。命令するのはオレで、お前の答えはイエスしかない。わかったか」
タモツは沙希子の手を強引にとると、指に指をからませてがっちりと握った。
「恋人握りで歩こうぜ」
タモツは沙希子をグイグイ引っ張って歩き出した。

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