12.祖母の死

しず子の純情

秋が深まり、そろそろコートが欲しくなる季節になった。夏休みが終わってからは、マサシは夜の八時に、しず子の学校に直接迎えに来るようになっていた。
その夜、いつものようにしず子が校舎から出てくると、マサシの姿が見えなかった。そんなことは今まで一度もなかったので、不審に思ったしず子はしばらく校門の前で待った。しかし、マサシは一向に現われなかった。仕方なく、しず子は一人で帰った。
母屋の台所で適当に食事をすませたしず子は、離れに戻って、テレビをつけた。画面をぼんやり眺めていると、突然、部屋の扉がノックされた。開けてみると、マサシが立っていた。
「なんだよ、お前。校門で待っていたのにスッポかすなんて酷いよ。何してたんだよ?」
「ごめんなさい。実はお婆ちゃんが死にました」
玄関の前の暗闇に立ち尽くすマサシは、肩を震わせて泣きそうになるのを懸命に堪えていた。
「いつ?」
「今日の夕方です」
「そう。…大変だったね」
「これからお通夜です。しばらく勉強を教えに来られません。ごめんなさい」
「いいよ、アタシの勉強なんて気にするなよ。それより早く帰った方がいいよ」
「はい。失礼します」
マサシはぺこりと頭を下げると、肩を落として歩いて行った。
(本当に悲しいことがあった人は、後ろ姿でも分かるんだな)
しず子はうなだれて歩いて行くマサシの後ろ姿が、急に愛おしく思えてきた。
「おい、マサシ」
しず子の声に振りかえったマサシは泣いていた。頬に幾筋もの涙を流しながら、それでも泣くまいと懸命に頑張っていた。
「ちょっと戻って来いよ」
しず子は手招きして、マサシを呼び戻した。そして戻って来たマサシをいきなり抱きしめた。
「泣きな、思いっきり泣きなよ」
マサシはしず子の温かく柔らかい胸の中に顔を埋めて、声を上げて泣き出した。しず子は片手をサシの肩に回すと、ぐっと抱き寄せ、残った手でマサシの頭をやさしく撫でた。両の二の腕で無意識のうちに寄せ上げられた乳房の大きな膨らみに、マサシは顔を擦りつけて泣き続けた。Tシャツとその下のブラ越しに、しず子はマサシの熱い吐息を感じた。マサシは小学生みたいに石鹸の匂いがする。マサシを慰めながら、しず子は自分も癒されているような満ち足りた気持ちになった。
秋の冷たい空気を突き抜けて、月の光が二人を照らしていた。
次の日、しず子は母親に頼んで、近隣の斎場に片っ端から電話をしてもらい、マサシの祖母の葬儀の場所を探し当てた。電話に出た斎場の担当者が言うには、葬儀は一二時からで、そのまま荼毘に付されるということだった。
「内村さんって、そもそも誰のお葬式なの?」
娘がよからぬことにかかわっているのではないかと心配した母親が聞いてきた。
「家庭教師の子。あの子のお婆ちゃんだよ」
「あの男の子か」
マサシが離れに出入りしていることは、母親もうすうす勘づいていた。しかし中学の頃からいきなり髪を染めて荒れだした娘に遠慮して、今まで咎めることはなかった。
「あいつお母さんがいなくて、かわいそうなんだよ。しかもお婆ちゃんが死んじゃったし…」
「そう、そりゃかわいそうだね」
「これから行ってくる」
「どこへ?」
「お葬式」
そう言うと、しず子が勢いよく立ち上がった。
「行くって、アンタ。まさかその恰好でいくんじゃないだろうね。葬式に赤いジャージで行くバカがあるか」
「しょうがないでしょ。服がないんだから」
「婆ちゃんの時に買ったのは?」
「あんなの小さくて、着れないよ」
「じゃあ、ちょっと待ってな。誰かに借りてくるから」
「うるさい。ほっといてよ」
母親の制止を振り切って、しず子は家を飛び出した。
しず子の家から斎場までは、自転車で30分ほどの距離だった。強い北風にあおられながら、しず子は自転車を懸命に漕いだ。
斎場に着くと、入口には四つの看板が立っていて、マサシのところは一番奥の端にある式場だった。式場前の広場に集まっている大勢の喪服姿の人たちを掻き分けて、しず子は自転車を走らせた。金髪に真っ赤なジャージの上下という場違いな恰好をしたしず子に、人々は驚きの眼差しを向け、どよめいた。
ようやくマサシの式場の前まで来たしず子は、わざと離れた場所に自転車を止めて、なかの様子をうかがった。勢いで来てしまったものの、確かに赤いジャージ姿で式場に足を踏み入れるのは勇気がいった。そこでまず、遠くから式場のなかをのぞくことにしたのだ。
大勢の喪服を着た人々で混み合っている他の三つの式場とは違い、マサシのところには会葬者が四、五人しかいなかった。その中に中学の制服を着たマサシが立っていた。マサシはすぐにしず子に気がつくと、走り寄って来た。
「草壁さん、来てくれたんですか。ありがとうございます」
マサシが深々とおじぎをした。
「そうじゃないんだよ。こんな恰好じゃお葬式に出られないよ。そうじゃなくて…あの、勉強教えるのを続けてくれよな。それで淋しかったら、いつでも来なよ。今日からでも明日でもいいんだよ。遠慮しないでうちに来なよ。それだけ言いに来た」
マサシがいきなりしず子の手をつかんだ。しず子はドキっとした。反射的に身体をこわばらせたが、マサシの手は温かく、意外に大きく、しず子の手を優しく包みこんだ。しず子はうっとりと優しい気持ちになってくる自分に戸惑った。
「お願いします。お焼香して行って下さい」
「だって、こんな恰好じゃ…」
「お婆ちゃんが喜びます。絶対に喜びますから、お願いします」
マサシがしず子の手を引っ張って歩き出した。いつもと違う毅然としたマサシの態度に圧されて、手をつながれたまま歩いた。斎場の入口が近づいてきた。しず子は急に恥かしくなってさりげなく手を振りほどくと、だまってマサシの後に続いた。
祭壇に飾ってある祖母の遺影は、病気になる以前に撮られたものだった。しず子の予想通り、美しいお婆ちゃんだった。
祭壇の付近に陣取っていたマサシの父親や親戚と思しき年配の男たちが、真っ赤なジャージの上下を着た金髪のしず子を見てびっくりした。しかししず子は、もう気にならなかった。祭壇の前に堂々と進むと、両手を合わせて目を閉じた。
(草壁しず子です。こんな恰好で本当にごめんなさい。マサシのことは力になるので、心配しないでください…あと、三途の河原で、杉山って奴が蛆虫に食われて転がっていますから、頭を踏み潰しといて下さい。お願いします)
遺影の中から、祖母がやさしい笑顔でしず子を見守っていた。
斎場から家へ帰る間、しず子はずっとマサシの手の感触を思い出していた。嬉しさが心の底から込み上げてきた。しず子は顔を火照らせて、自転車を漕ぎ続けた。

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