17.決断

しず子の純情

エアコンをきかせているのに、部屋の熱気がとれなかった。しず子は額の汗をタオルでぬぐった。
(どうしよう。妊娠した)
しず子は流れる汗を拭きながら、冷静になれと自分に言い聞かせていた。
珍しく生理が狂ったしず子は、最初はそのうちくるだろうとたかをくくっていた。しかし、何日待っても、良い知らせはこなかった。しず子はしかたなく県庁の近くの薬局に行き、妊娠検査薬を買った。
(まさかと思ったけど、当たりだ。なんで妊娠したんだろう。ちゃんと計算していたし、危ない時はコンドームも使ったのに。ひょっとして、栄子の奴が嘘をついたのか?)
しず子は家出していなくなったヤリマン栄子の顔を思い浮かべた。
(あの野郎、見つけたらただじゃおかない。フクロにしてやる)
栄子が子供を堕ろした病院は知っていた。提出する書類や診察室での出来事など、しず子は栄子から逐一聞いて全部知っていた。
(お金はあるから大丈夫だ。それよりマサシに悟られないようにしなくっちゃ。これはアタシだけの問題だから、マサシには絶対に迷惑はかけない)しず子は心に固く誓った。
(病院は学校が始まってから行こう。でも考えてみれば、しばらくは妊娠の心配がなく、マサシとエッチできるな)
悪いことばかりじゃないと、しず子は自分に無理やり言い聞かせた。そしてマサシの前では明るく振舞った。
ところがしず子は、捨てたはずの検査薬を母親に見つかっていた。
その晩、しず子は母屋で久々の食卓を囲んだ。マサシの父親がお盆休みなので、しず子が気を利かせてマサシを早く帰らせたのだ。久々の母屋の食卓は兄のマモルが盆踊りに出かけていたので、両親としず子と弟のタモツの四人だった。
「しず子、何か言ういことはないの」
母親がいつになく鋭い口調で切り出した。
「別に…」
「アンタ、妊娠しているだろ」
突然の母の言葉に、しず子はびっくりした。
「なに?しず子、本当か?」
父が大声で質してきた。
最初はごまかそうとしたしず子も、母に使用済みの妊娠検査薬を突き付けられて、黙るより他になかった。
「父親は誰だ」
「言いたくない」
「バカ野郎」
父がテーブルを叩いた。
「内村正志っていう、西高の奴だろ。オレ知ってるよ」
弟のタモツがボソリと言った。
「お前はよけいなこと喋るんじゃないよ」
しず子がタモツに殴りかかった。母親が二人の間に割り込んで、しず子をおさえた。
「タモツ、マモルを探して呼んで来い。これから車でそいつの家へ行く」
父がきっぱりと言った。
「やめてよ。マサシには関係ないんだから。これはアタシの問題なんだから」
「お前だけの問題じゃない。一人じゃ子供は出来ないんだ」
父親がしず子を睨みつけた。しず子は唇を固く噛んで、睨みかえした。食卓に沈黙の重い空気がたれこめた。父親はピッチをあげて、焼酎を飲み続けた。しず子は唇を噛んで、それを黙って睨み続けた。
「着替える」
突然、父親がそう言うと、立ち上がり部屋へ行った。その後を母親が追いかけた。しず子は一人で食卓に残された。風に乗って、遠くから盆踊りの音頭が聞こえてきた。
タモツに呼ばれて、マモルが家に戻って来た。家への帰り道に、マモルは弟から全てを聞いていた。
「内村って、市営住宅に住んでいるみたいだね。今から行くの?」
マモルがにやにやしながら父に聞いた。
「そうだ」
父が立ち上がるのと同時に、しず子も立ち上がった。
「アタシも行く。これはアタシの問題だから」
マモルの運転で、しず子は父と一緒にマサシの家に向った。
(いくらお父さんでもマサシに暴力を振るったら絶対に許さない。殺してやる)
しず子は心に固く誓っていた。
お盆の渋滞と盆踊り大会が重なって、通常なら車で十五分もかからないマサシの家まで、小一時間かかった。マサシの家は一棟を二世帯に区切った平屋のアパート群の一角にあった。小さなドアの両側に手入れされた鉢植えが並び、窓から漏れる蛍光灯の光の中で、青紫色の桔梗の花が淋しそうに咲いていた。
しず子たちが車で向う間に、母親が電話でマサシの父親と話をしていたらしく、扉を開けたマサシの父親は緊張した面持ちだった。
「どうぞ、奥へ」
しず子たちは三畳ほどの台所を抜けて、奥の座敷に通された。古ぼけた箪笥に囲まれた八畳間は畳が焼けて、ささくれ立っていた。奥にマサシが正座していた。真っ赤になって、泣きそうな目でしず子を見つめてきた。しず子は申し訳なくて、マサシの目を見られなかった。
「内村と申します」
マサシの父が、正座して深々と頭を下げた。マサシの父親は小柄だった。白髪まじりの短髪で、浅黒く焼けた顔は頬がこけ、小さな瞳が落ち着きなくキョロキョロと動いていた。まるで貧乏神にとりつかれているように風采があがらない姿は、マサシと親子とは思えなかった。
「草壁です。電話でお聞きの通り、うちの娘がお宅の息子さんの子供を身ごもりました」
父が絶対に暴れると思い身構えていたしず子は、父の意外な冷静さに少し安心した。
「それで、これからのことですが」
父の言葉をしず子が遮った。
「子供は堕ろします。お金も用意してあるし、病院も知っています。これはマサシとは関係のないことなんです。全部アタシの責任ですから、自分で全部やります。マサシには絶対に迷惑をかけません」
しず子は大声でまくしたてた。いきなり、父がしず子の頬を平手で打った。
「お前は黙ってろ」
「黙るのはお父さんじゃない。これはアタシの問題だって言ってるだろ」
父に掴みかかろうとしたしず子を、マモルがおさえた。
「すみません。こんなお転婆なんですが、この子は親の私が言うのもなんですが、優しい子なんです」
父が意外なことを喋り出したのを聞いて、しず子はあっけにとられた。
「甘やかしましたけど、魚もおろせますし、掃除や洗濯は一通りできます。身体も見てのとおり丈夫で、風邪もめったにひきません。身なりは不良ですけど、実は素直で、真面目な良い子に育ちました。まあ、私に似て勉強は得意じゃありませんが、倹約家でしっかり者です」
「分かりました。先ほど、そちらのお母さまからお電話を頂いた時は、驚きました。それでせがれに問いただしたところ、間違いないと。で、話をしましたら本人も承知しておりまして、うちは、異存はございません」
「じゃあ、あとは日取りだけですね」
「ええ、ご覧の通りの貧乏ですので、大したことはできませんが、よろしくお願い致します」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
両家の父親が、深々と頭を下げ合った。
「ちょっと待ってよ。どういうことよ」
しず子が問いただした。
「どうもこうもない。お前はマサシ君と結婚するんだ」
父の言葉にしず子はびっくりした。
「冗談じゃないよ。マサシはまだ高校一年だよ。そんなこと出来るわけないでしょ。バカじゃないの」
しず子が早口でまくしたてるのを、それまで黙っていたマサシが遮った。
「ボク、学校を辞めて、しず子さんと結婚します」
しず子は絶句した。
驚いたことに、魚を捕ることと酔っぱらうしか能がないと思っていた父が、あっという間に全てを仕切った。
まず、父は知り合いの大工に頼むと、離れを突貫で増築した。これまでの八畳間を茶の間兼台所にし、寝室として新しい八畳間を増築したのだ。シャワーだけのお風呂にも湯船がついたし、シンクも新しくて大きなものに交換した。さらに中古ショップで箪笥を見つけてきて、瞬く間に新居を完成させていった。新しい寝室には、マモルからのお祝いで、大きなダブルベッドが運ばれた。
9月の新学期に、しず子とマサシはそろって退学届を出した。
「うちは海を攻めているから、マサシ君は陸で頑張れ」
そう言った父の紹介で、マサシは地元の建設会社の下請けで、現場の作業員を抱える会社に入社することになった。
そして敬老の日に、二人は結婚式を挙げた。
「マサシ君が成人してから改めて披露宴をするとして、とりあえずは身内だけでさらっとやりましょう」
父の提案にマサシの父親も同意した。
こうして草壁家の五人と内村家二人だけの結婚式が、神社で執り行われた。
結婚式の服装に関してはひともめあった。花嫁衣装を借りると言い張る母親の意見を、しず子はぶっちぎったのだ。
「絶対に着ない。和服もいやだし、スカートは絶対にいやだ」
そう言い張ったしず子は、それでもしつこい母親の説得で、渋々白いパンツスーツを身に付けた。式場についてみると、マサシは紋付に羽織袴を着ていた。
ふくれっ面の花嫁にうつむいた花婿、奇妙な新郎新婦の恰好に、神主が目を白黒させながら祝詞を上げた。
その後、全員でしず子の家の近くにあるうなぎ屋の二階に行き、祝杯をあげた。
しず子は式の時からふくれっ面のままで、マサシもずっとうつむいて黙っていた。
こうして始まったぎこちない宴会も、酒が入るとじょじょに華やいできた。酔って喋り出したしず子の父親に、マサシの父親が上手に合いの手を入れながら、会話を弾ませていった。そこにいつの間にかしず子の母やマモルまでも参戦し、宴会が華やかになっていった。その中で押し黙っている新郎新婦を無視して、弟のタモツだけが黙々と料理を食べていた。
「もう帰る」
しず子はそう言い放つと、立ち上がった。
「おう、そうだな。マサシ君と先に帰ってろ」
父はそう言うと、部屋を出て行くしず子にかまわずに、ご機嫌で酒を飲み続けた。
しず子が店の外に出ると、マサシが黙ってついてきた。突然の結婚が決まってから、しず子はマサシと一度も会っていなかった。しず子の携帯にはマサシから沢山の着信とメールが届いたが、しず子はそれらを全て無視し、読まずに片っ端から消去していた。
新居に戻り、しず子はようやく口をきいた。
「ごめん。本当にごめんね。アタシはマサシのお婆ちゃんに合わす顔がないよ」
マサシは緊張した表情で、黙ってしず子を見つめた。
「これからのことはちゃんと考えるから、心配しないで。今日は疲れたから寝るよ」
しず子はそういうと、床に布団を敷いた。
「マサシはここで寝て」
そう言い残すと、しず子は脱衣所に行ってパジャマに着替えた。そのまま無言でベッドに滑り込むと、マサシに背を向けた。
しず子は自分が妊娠したことを許せなかった。自分の不注意で、マサシの人生を狂わせてしまったことを心から後悔していたのだ。
(マサシの邪魔は絶対にしないと誓ったのに。本当にマサシのお婆ちゃんに申し訳ない)
それを考えると涙が出てくるのだった。
その一方で、周囲の大人に流されてしず子と結婚することを宣言したマサシにも腹が立っていた。
(アタシがちゃんとまとめようとしているのに、なんで結婚するなんて言い出すんだよ)その一言で、マサシが東京の大学に行く時に全ての関係を解消するというしず子の考えていた計画は全て吹き飛んでしまった。自分の計画を台無しにしたマサシにも、怒りの矛先は向いていたのだった。
しかししず子はマサシとの関係を解消する計画を諦めたわけではなかった。
(まだ、諦めたらだめだ。挽回のチャンスはきっと来る)
あれほどいつも一緒にいたいと願っていたマサシと同居することになったのに、しず子はそれを喜ぶどころか、今や二人の関係を清算することを心に固く誓っていた。
次の週から新しい生活がスタートした。毎朝七時半に仕事に出かけるマサシのために、しず子は五時半に起きて弁当を作る。そして6時半にマサシを起こし、マサシが顔を洗っているうちに布団を片付け、朝食を食べさせから仕事に送り出すのだ。昼間のアルバイトは止めてしまったので、暇になったしず子は掃除と洗濯に精を出した。こうしてマサシの身の回りの世話はきちんとやるものの、しず子はいつも不機嫌そうで、マサシには必要最低限のことしか話さなくなっていた。
一方のマサシはとび職として働き出した。慣れない肉体労働に、マサシは毎日へとへとになって帰って来た。しず子が沸かした風呂に入ると、マサシは黙って食卓につく。そして二人とも無言で夕食をとると、ぼんやりとテレビを眺め、十時には寝床に入った。マサシは布団で、しず子はベッドだった。
そんな生活が続くうちに、しず子は激しいつわりに襲われた。朝晩を問わず突然襲ってくる酷い吐き気に、しず子は毎日苦しんだ。
「つわりが酷いほうが、良い子が生まれる」
母親の無責任な言葉を怨みながら、しず子は便器を抱えて、毎日吐き気と闘った。
ある時、あまりに苦しむしず子を見かねたマサシが、しず子が籠っているトイレのドアをそっと開けた。
「しーちゃん、大丈夫ですか」
マサシの手が、うずくまっているしず子の背中を優しく撫でた。
(なにすんだよ、コイツ。あっちへ行けよ)
しず子は毒づきたかったが、吐き気が酷くそれどころではなかった。だが、黙ってマサシに背中を撫でられるうちに、不思議と吐き気がおさまってくるのだった。ようやく吐き気から解放されたしず子は、マサシの手を振り払った。
「よけいなことすんなよ。誰が頼んだんだよ」
しず子が睨みつけると、マサシは困った顔になり、トイレのドアをそっと閉めて退散したた。
(吐いているところなんか、見るんじゃないよ。みっともないじゃないか。バカ)
しず子は苦しむ自分の姿を見られるのが恥ずかしかったし、ましてや吐いているところは絶対に見せたくなかったのだ。しかし、マサシが立ち去ると、再び強烈な吐き気が襲って来た。しず子は涙目になって必死に耐えたが、我慢にも限界があった。
「マサシ、マサシ」
ついに耐え切れなくなったしず子が怒鳴ると、トイレのドアがすぐに空いた。マサシはしず子がトイレに籠っている時は、必ずその前で待機していたのだ。
「背中さすってよ」
「はい」
マサシがしず子の背中をやさしく撫で始めた。しばらくさすらせると、吐き気が引き潮のように治まっていった。
「ありがとう」
しず子はそう言って、マサシの目を見た。マサシが喜ぶ子犬の顔になった。
その日以来、しず子は吐き気がするとマサシに背中をさすってもらうようになった。
(こいつらグルじゃないのか)
お腹の子供が引き起こす吐き気を、父親のマサシが止めて見せるという絶妙のコンビネーションに、しず子は二人がグルで自分をイジめているような気にさえなった。ただ、しず子はマサシに背中をさすってもらうのが好きになっていた。
(なんか知らないけど、マサシに触られると落ち着くんだ)
毎日吐き気と闘いながら、しず子はマサシの帰りを待ちわびるようになっていた。

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