11.初恋

しず子の純情

その日の夕方、バイトを終えたしず子がゲームセンターの駐車場に出てくると、マサシが一人で立っていた。
(なんだよ。面倒くさい奴だな)
しず子は不機嫌になった。確かにマサシを助けてやったけど、それ以上面倒をみる気はなかった。あとは同級生同士で解決すればいいと思っていたのだ。ことがあるごとに出張って行き、中学校を締めて子分を持とうなどという気はさらさらなかった。
しず子はマサシを一瞥しただけで、無言で自転車を漕ぎだした。そのあとを小走りになって、マサシがついて来た。
「なんか用かよ」
しず子は自転車を止めてマサシの顔をジロリと見ると、不機嫌そうに言った。その視線を正面から受け止めて、マサシが意外なことを口走った。
「送ります」
「はぁ?」
「夜道は危ないので、家まで送ります」
しず子は思わず笑ってしまった。
「まだ五時半だよ。しかもまだ明るいし。って言うか、お前みたいに弱いのがいても役に立たないよ」
「はい。でも、いないよりはましです」
マサシが一途な眼差しでしず子を見つめながら言った。その真剣な表情が好ましかった。思えばこんなふうにしず子を正面から見据えて喋る人間は、周りにはいなかった。周りの連中は誰もがしず子を恐れ、腫れもののように接するのが常だった。敢えて例外を探せば、父と兄のマモルくらいだった。しかし父親は基本的に子供に無関心だし、兄とは子供の頃はいざ知らず、大きくなった今は目に見えない距離があった。言ってみれば誰もがかかわるのを嫌がる自分に、真剣な眼差しで喋りかけてくるマサシが、しず子には珍しかったのだ。
「変な奴だな。じゃあ、後ろに乗れよ」
「えっ?」
「自転車の後ろに乗れよ」
マサシが喜ぶ子犬のような顔になった。
「でも、アタシの身体には絶対に触るなよ」
「はい」
マサシは荷台にまたがると、両手を自分の背中の方に回して、荷台のヘリをつかんだ。しず子がゆっくりと自転車を漕ぎだした。
夏の夕暮れの中、風に吹かれながらしず子は自転車を漕ぎ続けた。二人とも無言だった。
(男とチャリンコ乗るなんて初めてだ。でもなんか変だな…)
家への帰り道の半分あたりまで来たところで、しず子は突然、自転車を止めた。
「って言うか、お前が漕げよ。送ってくれるお前が、どうして後ろに乗ってんだよ」
「すいません」
マサシが慌てて荷台から降り、しず子の代わりにハンドルを握った。しず子は荷台に跨ると、マサシの肩に両手を置いた。痩せているが、その肩は意外に骨太だった。
「ポリ公がいない海沿いを行けよ」
「はい」
夕方ということもあって、海沿いのサイクリング・ロードには子供たちの姿はなかった。その代りに時折、スポーツタイプの自転車に乗った連中がレーサー風の衣装に身を包んで、物凄いスピードで自転車を走らせていた。
それらに軽々と追い越されながら、マサシはゆっくりと自転車を漕いだ。しず子は海を眺めながら、黙って荷台に乗っていた。
「女の子と一緒に、チャリンコ乗ったことあるか?」
しず子が突然、聞いた。
「ないです」
「そう。アタシも男と乗るの初めてだ」
それから毎日、マサシは駐車場に現われて、しず子を家まで自転車に乗せていった。

「じゃあ、お前、晩ご飯はどうしてるの?」
自転車での帰り道にボツボツと喋るようになったマサシが、自分の家の話をするようになった。それは安手のドラマのように悲惨だった。
一人っ子のマサシは幼稚園の時に母親を病気で失っていた。さらに長距離トラックの運転手だった父親が交通事故を起こし、その後遺症で車の運転が出来なくなった。そんな父親を不憫に思った運送会社の社長が、夜警の仕事で雇ってくれた。それ以来、父親は毎日夕方に出勤すると、会社内の倉庫や駐車場を夜通し見廻るのだった。その細々とした収入で、親子は今日まで生き抜いてきたのだった。
さらに追い打ちをかけるように、母親が死んでから家事を一手に引き受けていた祖母が、この夏に病気で入院してしまった。つまり、マサシは夕方から朝まで一人ぼっちなのだ。
「お婆ちゃんがいなくちゃ、ご飯が食べられないじゃないか」
「自分でなんとかしてます。コンビニ弁当とかもあるし」
マサシの話を聞きながら、しず子はちょうど今頃、夏休みに死んだ自分の婆ちゃんのことを思い出していた。
思えばしず子の家も共稼ぎで、掃除、洗濯や食事の支度は、婆ちゃんが主役だった。やさしかった婆ちゃんは、男兄弟の中で唯一の女の子だったしず子をとても可愛がってくれた。物心がついた時から、分からないことや困ったことは、何でも婆ちゃんが解決してくれたのだった。
しず子は似たような境遇にあるマサシのお婆ちゃんに、急に会ってみたくなった。
「おい、明日、お婆ちゃんのお見舞いに行こうよ」
突然のしず子の申し出にマサシは驚いたが、断らなかった。
次の日の夕方、いつものように自転車の二人乗りで、しず子はマサシと一緒に、祖母のお見舞いに行った。
マサシの祖母は、港の近くにある町立病院に入院していた。古くからあるその病院は建物が小さくオンボロなので、最近では近隣の住民たちが敬遠するようになっていた。それよりも施設が立派で新しい市立病院に行くのが当たり前になっていたのだ。その結果、町立病院にかかるのは老人ばかりで、入院患者も全員が高齢者だった。
玄関を入ると病院の中は薄暗く、鼻を突くような消毒液の匂いがした。外来診療を終えた待合室はガランとしており、薄汚れた壁に成人病検診のポスターが貼り出されている。ポスターの中から、テレビで見たことのある若い女のタレントが、バカみたいな顔で微笑みかけていた。
二階に張り付いたままエレベーターがなかなか下りてこないので、二人は四階の病室まで階段を昇って行くことにした。
病室は大部屋で、八人の老女が色々な管に繋がれて、ベッドを並べて横たわっていた。
「うわわ」
これまで見たことのない金髪の大女が病室にいきなり入ってきたので、廊下側の一番手前に寝ていた老婆が驚きの声を上げた。しず子は睨んで老婆を黙らせると、マサシの後に続いて、ずかずかと部屋の中に入って行った。
マサシの祖母は一番奥の窓際のベッドにいた。点滴のスタンドを枕元に立てて、祖母は寝ている様子だった。枯れ枝のようにやせ細っているのだろう。布団が驚くほど平らで、人が寝ているとは思えない程だった。
「お婆ちゃん、お見舞に来たよ」
マサシの声に気づいた祖母が、こちら側を向いた。
「草壁しず子です。これお見舞いです」
しず子は途中で買った小さな花束を、ぶっきらぼうに差し出した。祖母は慌てて上体を起こすと、小声でお礼を言いながら、花束を受け取った。骨と皮だけになった細い手首に、点滴の針が絆創膏でとめられているのが痛々しかった。しかしその表情は穏やかで、上品そうな笑顔だった。ぱっちりとした二重瞼に聡明そうな黒い瞳が輝き、口元にも品があった。病気でやつれているが、白髪をきちんと撫でつけていて、寝巻もだらしなく着崩れることがなく、行儀よい身なりだった。
(マサシにそっくりだ。やつれているけど、病気になる前は相当な美人だったんじゃないかな)
しず子はそう思った。
「花瓶を借りてきます」
そう言ってマサシが部屋の外に出てしまったので、しず子は祖母と二人きりになった。勧められるままにベッドの脇の丸椅子に腰かけたしず子は、何を喋っていいか分からずに、黙って祖母を見つめていた。そんなしず子を見つめ返す祖母も無言で、ただ何かを承知したかのように、時折うなずきながら微笑んでいた。その微笑みからは優しい風が流れてきた。
しず子は亡くなった自分の婆ちゃんのことを思い出し、急に胸が詰まってきた。
ようやく花瓶を借りて戻って来たマサシが花を生け終わると、しず子のことを訥々と説明し出した。チェーンを直してくれたこと。ハンカチを洗ってくれたこと。不良を退治してくれたこと。ぼそぼそと喋るマサシの言葉に、祖母は小さな声で相づちを打ちながら、時折優しい笑みを浮かべてうなずいた。そしてマサシが喋り終わると、しず子に深々とおじぎをした。
しず子はその姿を見ていて、泣きそうになった。自分の祖母とかさなるこの老女に、辛かったあの夏の話を打ち明けたくなったのだ。大泣きに泣きながら、話を聞いてもらいたくなったのだ。
「じゃあ、帰ります。お大事に」
このままいたら絶対に涙が出て、あらぬことを話し出すと思ったしず子は唐突に立ち上がり、二人に構わず足早に病室を後にした。
病院の玄関を出て、ようやく泣きそうな気持ちを立て直して自転車の鍵を外していると、マサシが追いついてきた。
「ありがとうございました」
「うん、いいよ。やさしそうなお婆ちゃんだね。今日はお婆ちゃんと一緒にいてあげなよ」
「でも、婆ちゃんが草壁さんを送っていけって」
真面目な顔をしてそう言うマサシに、しず子は思わず笑ってしまった。
「お婆ちゃんは、お前が頼りないこと知らないの?」
「多分、知ってます。でも草壁さんを家まで送って行けって。そうしないと怒られます」
「変なの」
しず子はマサシに自転車を渡すと、大人しく荷台に乗った。
自転車が走りだすと、しず子がぶっきらぼうに言った。
「お前、うちで飯を食っていけよ」
「えっ?」
「いいからうちに寄って、飯を食え。アタシが作ってやるよ」
「悪いです」
「アタシの料理がイヤなの?」
そう脅されて、結局、マサシはしず子の家に行くことになった。
家に着くなりしず子は離れにマサシを招き入れると、急いで母屋に向った。母屋に来るなりいきなり台所に入って来たしず子に、母親が驚いた。
「どうしたんだい?」
「友達が来たから、ご飯はあっちで食べる」
しず子は母親に有無を言わさず炊飯器を開けると、空いている鍋にご飯を取り分けた。さらに味噌汁や刺身もぶんどると、母屋を後にした。
大量の食材を抱えて離れに戻ると、マサシは座卓の前で正座して、しず子が畳の上に放り投げていた高校の教科書をテーブルに広げて読んでいた。
「そんなもん見てないで、ほら、メシだ。今日はヒラメのお刺身があるよ」
マサシに手伝わせて料理を並べると、二人で向い合って食事をした。
「お前、高校の教科書なんか見て、分かるのかよ」
「はい、なんとなく」
「ふーん、すげえな。じゃあ、高校は西高だね」
しず子たちの地元では、港西高校が一番難しい公立高校だった。
「そうなると思います。でも授業料が免除になるので、私立に行くかもしれません」
そういってマサシが全国的に有名な、県内屈指のエリート高校の名前を上げた。そこは全寮制で、東京大学や京都大学に、毎年多数の生徒を合格させていた。
「お前、凄いじゃないか。どうしてそんなに勉強が出来るんだ?」
「よくわかりません」
「はぁ?それって、言ってることが変だろ」
マサシが訥々と説明するところによれば、マサシは一度教科書を見るだけで、カメラで撮ったように全部暗記できるという。つまり試験の時には頭の中で教科書を開いて、それを見ながらやるので、答えはおのずと分かると言うのだ。
「だから、カンニングしているのと同じですから、ひょっとするとボクはバカなのかもしれません」
「訳が分からない奴だな」
しず子はケタケタと笑った。
「じゃあさ、例えばこんなのは分かるかな?」
しず子は学校から渡された夏休みの宿題を持ちだしてきた。それは数学の問題集だった。
「えーと、ちょっと教科書を見せて下さい」
教科書をパラパラとめくりながらしばらく考えていたマサシは、急にエンピツを走らせ、次々に答えを出していった。
「おい、凄いじゃない」
しず子は驚いた。
「お前は天才だね」
マサシが顔を赤らめて、照れくさそうに笑った。
「いいこと考えた。お前に晩飯を食わせてやるから、アタシに勉強を教えてよ」
「はい、いいです。お願いします」
子犬のように微笑むマサシを見ながら、しず子は自分のアイディアの素晴らしさに笑いをかみ殺した。
(こいつは使える。宿題は全部、こいつにやらせよう)
こうしてマサシはしず子の家庭教師という名の宿題係になった。
この日から毎日、二人はしず子のバイトが終わる夕方の五時半に駐車場で待ち合わせた。そして自転車で一緒に帰ると離れで食事をして、しず子の宿題をマサシが片づけるのだった。
数週間後の夏休みの登校日、早々と宿題を完璧に仕上げてきたしず子に、クラスの担任が驚いた。
「草壁、お前だってやればできるじゃないか。先生は嬉しいぞ」
クラスメイトの前で褒められたしず子は、インチキしていることは棚に上げて、ちょっと得意な気分になった。
(学校で、しかも勉強で褒められるのは初めてだ)
褒められても不機嫌そうにしている表情とは裏腹に、しず子は凄く嬉しかったのだ。
それからしず子は、本気で勉強を教わるようになった。やってみるとしず子は意外に物覚えが良く、国語や歴史はあっという間に追いつけるようになった。ただ、英語や数学は中学の頃からの積み上げがないので苦労したが、マサシの教え方が上手いのか、おぼろげながら要領が見えてくるようになった。
勉強を教わっているうちに、しず子はマサシの声を聞くとなぜか心が休まることに気がついた。朴訥と喋るマサシの声にはしず子を癒し、鎮める力があるのだ。しず子はもともと短気な上に極端な負けず嫌いの性格なので、ちょっとした言葉にすぐに腹が立ち、臍を曲げるタイプだ。でもマサシの言葉なら、なんでも素直に受け入れることが出来るのだった。
しず子は勉強が好きになった。というより、一生懸命説明するマサシの声を聞くのが大好きになったのだ。

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