年が明けて二月の寒い日のことだった。いつものように溜まり場でぼんやりしていると、仲間が目の前で読んでいたスポーツ新聞の三面に記事の中に、しず子はスギヤマの顔を見つけた。
「ちょっと貸せよ」
慌てて新聞を取り上げると、しず子は記事に見入った。
「連続強姦魔、腐乱死体の謎」そう見出しを打たれた記事は、連続強姦事件で全国指名手配されていた杉山輝正が、一週間前に東北の山中で、腐乱死体で見つかったことを報じていた。身体には無数の刺し傷があり、死因はそれによる失血死だった。記事によると、その犯人と思われる男が、別の事件で逮捕されたようだった。
しず子は溜まり場から家に帰る途中に、生まれて初めて週刊誌を買った。一週間前に起きた杉山の死体発見の記事が、二、三誌に掲載されていた。
部屋に戻ってじっくりと読むと、週刊誌は新聞よりも踏み込んだ内容を報道していた。
杉山はスタンガンを使って女性を襲い指名手配されていて、盗難車で全国を逃げ廻っていた。金がなくなると被害者から金まで奪うなど、卑劣極まりない男だった。その他にも、被害にあった女性の下着を集める性癖や、幼い頃に父親から幼児虐待を受け孤児院で育ったこと、さらには18歳の頃に男を相手に身体を売っていたことから肛門性交に異常なこだわりを見せ、被害にあった女性は必ず肛門も犯された、なども記事になっていた。
(ざまあみろ。お前なんか腐って、蛆虫に食われるのがお似合いなんだよ)
しず子は心の中で毒づいた。
(あの世に行っても、お前はずっと蛆虫に食われ続けるんだ)
しず子はほんの少し、心が軽くなった気がした。
その夏の夕方、いつものようにバイト先のゲームセンターの駐車場から自転車を出したしず子は、前の道で自転車を引いて歩いてきた少年とぶつかりそうになった。
「あぶねぇな。お前どこ見てんだよ」
「すいません」
中学の校章がついた半袖のワイシャツを着たその少年が、ぺこりと頭を下げた。よく見ると少年の自転車はチェーンが外れており、そのために乗れずに引いて歩いていたのだった。
「お前、チェーン入れられないの?」
「はい」
「ちょっと、どいてみな」
しず子は自分の自転車から降り、少年の自転車の横にかがみこんだ。そしてチェーンを指でつまむとギアに噛ました。
「後ろのタイヤを持ち上げて」
しず子に言われて、少年は自転車の荷台をつかむと、後輪を地面から持ち上げた。しず子がペダルを回すとチェーンがうまくハマり込み、後輪が回転した。
「ありがとうございます」
少年は深々と頭を下げると、ポケットからハンカチを出し、震える手でそれを差し出した。
「手が汚れました。これで拭いて下さい」
そう言われて立ち上がったしず子は、初めてまじまじと少年を見た。
178センチのしず子より明らかに小柄なその少年は、細面で色白だった。男のくせにニキビが一つもなく、肌がツルツルとしていた。栗色の髪の毛は学校の校則通りに両耳にギリギリかかるくらいまで刈り込まれており、無造作に下ろしている前髪の下に、賢そうな黒い瞳が光っていた。
(アニメに出てきそうな顔だな)
不良グループにはいないタイプの顔立ちを見て、しず子はそう思った。
痩せた肩と薄い胸は、いかにも喧嘩が弱そうだった。腕も細いので、半袖のワイシャツの袖口がハタハタと風に揺れている。黒い制服のズボンの下に、泥で汚れたスニーカーが顔をのぞかせていた。
しず子は無言でハンカチを受け取ると、指についた油を拭った。綺麗にアイロンがかかっている白いハンカチがくしゃくしゃになって、油の黒い染みがついた。
「派手に汚しちゃった。これ洗濯して返すよ」
しず子がそう言うと、少年が真っ赤になった。
「い、いいです。気にしないで下さい。チェーンを直してもらったし…」
ハンカチを取り返そうと伸ばしてきた少年の手を、しず子が軽く払った。あまりにもオドオドしている様子が可笑しくて、しず子は急にこの少年をからかってやりたくなったのだ。
「あんた、アタシのことが恐いんだろ」
「そ、そんなことないです」
「実はびびってるだろ。親切にしてもらったくせに、かかわりたくないとか思っているだろ」
「違います」
「じゃあ洗濯して返すから、明日、この時間にここに来いよ」
明らかに怯えた顔で少年が返答に困っている隙に、しず子はハンカチをジャージのポケットにつっこむと、学校に向ってペダルを漕ぎだした。背中に少年の視線を感じながら、しず子は少年の怯えた様子が可笑しくて、クスクス笑いながら自転車を走らせた。
翌日の夕方、しず子がバイトを終え駐車場に出てくると、少年がすでに待っていた。
(へー、びびらずによく来たなぁ)
しず子は少し驚いた。おそらく少年はハンカチを諦めて、二度とここには来ないと思っていたからだ。笑いそうになるのを堪えて、しず子は少年に近づいて行った。
「よう」
少年を間近にしたしず子は、その姿を見て驚いた。
「お前、どうしたの?」
白いワイシャツが泥で汚れ、肩のあたりが切れていた。しかも右目の周りが、青い痣になっていた。
「なんでもないです」
「なんでもないわけないよ。喧嘩したの?」
しず子の咎めるような口調に少年が下を向いた。
「やられたのか?」
「はい」
「誰に?」
「学校の同級生です」
「ふーん、でもただの喧嘩じゃないよね」
少年の様子に、しず子にはピンと来た。
「お前、イジめられてんだろ?自転車のチェーンだって、そいつらに外されたんじゃないの?」
少年はうつむいたきり答えなかった。
「やられたらやりかえさないと、ずっとイジめられるよ」
しず子に言われて、少年がようやく顔を上げた。
「しょうがないです。ボクが弱いのが悪いんです」
顔を上げた少年は、意外にも泣いていなかった。むしろきっぱりとイジめを割り切り、それを己の運命として受け止めているかのように見えた。
「ふーん、分かった。これ昨日のハンカチ」
しず子が洗濯してアイロンをかけたハンカチを出した。少年は無言で受け取った。
「お前、港中だろ。何年生?」
「三年です」
「名前なんていうの?」
「内村です。内村正志です」
「マサシか。アタシは草壁」
「草壁さん…ですね」
「そう、草壁しず子。じゃあな」
しず子は自転車に乗ると、少年を残して立ち去った。
(中学校では相変わらず、イジめとかやってんのか)
向うから逆らってきた者を殴りつけたことは何度もあるが、イジめたこともイジめられたこともないしず子には、そういう陰湿な関係が理解できなかった。
(嫌いな人間は嫌いなままでいいじゃないか。なんでいちいちかまうんだろう?)
しず子には不思議でならなかった。並はずれた不良でありながら、人から命令されるのはもちろんだが、人に命令するのも大嫌いなしず子には理解できないのだった。
(あいつ、ちょっと可哀想だな。暇つぶしに、久々に中学校を冷やかしに行くか)
しず子はそう決心した。