1.誘拐

売られた女 比呂子

その日は比呂子の送別会の日だった。
美大を卒業してから4年間、食品メーカーの製品開発室で、新しいお菓子の開発を担当してきた比呂子は、いつの頃からかパティシエになることを夢見るようになった。そもそも小学校の頃から絵を描くことが大好きだった比呂子は、あらかじめ決められた道を歩くように、苦も無く美大のデザイン科に進学した。個性あふれる美大の同級生たちに囲まれて、気ままに過ごす大学生活は、楽しい思い出に溢れていた。しかし、就職の時期になると、その生活に暗雲がたれこめた。美大生の卒業後の行先は非常に狭く、美術系の腕をふるうことができる会社は一握りしかなかった。結局、就職試験を落ちまくった比呂子は、半ばやけくそになっていった。
(もう、就職できるならどこでもいい)
そんな腹積もりで受けた食品メーカーが、なぜか比呂子を気に入ってくれて、首尾よく就職できたのだ。比呂子は美大生なので、宣伝部や商品パッケージのデザインをやらせてもらえると考えていたが、意に反して配属されたのは商品開発部のお菓子のセクションだった。
(お菓子なんか作ったことないよ)
最初はやる気がない比呂子だったが、職場の明るい雰囲気が気に入り、だんだん菓子作りの世界に魅了されていった。そしていつかパリに留学して、本場のお菓子作りを学び、できれば小さなお店を開いてみたい、そう思うまでになっていった。こうして比呂子はコツコツとお金をため、念願かなって会社を辞め、この秋からパリに留学することになったのだった。
送別会では職場の仲間たちの温かい励ましを受け、二次会の店を出たときには、すでに午後10時を回っていた。比呂子はお酒が弱いので、日ごろからお酒を飲む習慣がなかった。ただ今日は自分の送別会だったので、ワインを2杯ほど飲んでいた。それでも酔うことはなく、しっかりとした足取りで、駅から家までの道を歩いて行った。住宅街にある比呂子のアパートに帰るには、人通りの少ない暗い道を通らなければならず、比呂子は後ろからやってきた車に気をつけながら、家路を急いだ。
(あれ、おかしいな)
角を曲がった瞬間、今さっき比呂子を追い越していった黒いバンがハザードをつけて駐車しているのが見えた。比呂子が足早にその脇を抜けようとした瞬間、車の荷台のスライドドアが開いて、黒ずくめの男が出て来た。
「すみません。道に迷っちゃって」
男はにっこりと笑って、比呂子に話しかけてきた。一瞬、緊張で身を固くしたが、よく見ると善良そうな男だったので、比呂子は男が差し出した地図を見ようと顔を近づけた。
「うっ」
突然、口を何か布のようなものでふさがれた比呂子は息が詰まった。息を継ごうと大きく吸い込んだとたん、比呂子は意識を失った。男は崩れ落ちる比呂子を支えるようにして、車の荷台に引きずり込むと、素早くドアを閉めた。
車の窓にはスモーク・フィルムを貼ってあるので、通りがかりの人が荷台の中を見とがめる心配はなかった。ただ、手早く済ますことに越したことはない。男はまず、結束バンドで、後ろ手にした比呂子の腕を拘束した。そして日本手ぬぐいを紐のように絞ると、比呂子の口を割って、猿轡を噛ませた。両足首は束ねて、ガムテープでぐるぐる巻きにした。
(これでもう逃げられないだろう)
男は一息つくと、小さな懐中電灯で比呂子の顔を照らした。ふっくらとした官能的な唇と歯並びの揃った綺麗な歯を、手拭いの猿轡が無残に割り裂いていた。前髪を切りそろえたショートボブのおでこに手をやると、男は前髪をかき分け、おでこを丸出しにした。品のよい二重瞼の下に、大きなアーモンド型の瞳が隠れていることを、男は知っていた。
実は駅で品定めをしていた男は、誘拐の目星をつけて、比呂子を尾行してきたのだった。駅の改札を抜けてきた時から、比呂子は男の目を釘付けした。深緑色のキュロット・スカートに白いブラトップ、そしてサマーカーディガンを羽織っている比呂子は、改札を抜ける群衆の中で圧倒的に目立っていた。ショートボブにクリクリと動く切れ長の瞳、すっと伸びた鼻筋、そして少し肉厚の唇が官能的に光っている。身長は158センチくらいか。すらりと痩せているシルエットといい、誘拐するのにちょうどいいサイズだった。
(あの娘に決めた)
男は急いで車に乗り込むと、比呂子を尾行していった。そして頃合いを見計らって比呂子を追い越すと、すぐの道を右折し、路肩に車を止めた。もちろん比呂子がこの道を通るとはかぎらない。歩いている道を、そのまま直進していくかもしれないのだ。
(こっちに曲がってくるのか、賭けだ)
男は素早く荷台に移り、ドキドキしながらサイドミラーを覗いていた。やがて比呂子が道を曲がってこちらにやってきた。
(ついてる。おれはラッキーだ)
こうして男は麻酔薬を使ってて、比呂子を車に連れ込むことに成功したのだった。
改めて近くで比呂子を見てみると、思った以上に美形だった。薬で眠らされている比呂子は、まるでお人形さんのような長いまつげをしていた。
(すげぇ、上玉じゃないか)
男はカーディガンの中に手を差し入れると、おもむろに比呂子の乳房をまさぐった。
(こいつはたまらない。着やせする女だな)
握った手を跳ね返してくる乳房のたわわな肉感に、男は興奮した。
「ううう」
比呂子が眉間にしわを寄せると、うめき声をあげた。
(やばい。こんなことしている暇はない)
男は比呂子をタオルケットですっぽりと包むと運転席に移り、車を発進させた。
首都高から高速を抜け、車は山岳地帯へと分け入っていった。

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