8.脱出

売られた女 比呂子

階上から響く突然の大きな物音に、比呂子は目を覚ました。ひとしきり男同士が怒鳴りあう声が聞こえた後、大きな悲鳴が糸を引くように聞こえ、そして静かになった。
(何があったの)
部屋の中は比呂子一人で、そこには眠る前まで執拗にまとわりついていた省吾の姿はなかった。比呂子は闇の中で身を固くした。

けたたましい音でドアが蹴破られ、一人の男が飛び込んできた。部屋の明かりがつけられた。まぶしさの中に現れたのは、比呂子をさらった村上だった。
「助けに来た。服を持ってきたから早く着なさい」
村上はベッドに駆け寄ると、比呂子に服を投げつけた。そして手にしたサバイバルナイフで、比呂子の首輪を切った。比呂子は慌ててベッドに投げられた服をかき集めて身につけた。それはスカート、タンクトップ、カーディガンや下着まで、比呂子がさらわれたときに身につけていたものだった。
「ここから逃げるよ。歩けるかい?」
「はい」
男の求めに応じて立ち上がると、比呂子はよろめきながらも男に続いて部屋を出た。男は部屋を出てから一旦、立ち止まると比呂子に言った。
「これからリビングを抜けて玄関に出るけど、そこで幸三が死んでいる。怖かったら目をつぶって、俺につかまってきてもいいよ」
「死んでる…殺されたんですか」
「俺が殺した」
村上がきっぱりといった。
「でも弟は?」
「それもさっき俺が始末した。あいつは念入りにやってやったよ。でもそんなことはあんたには全部関係のないことだ。早くこの家から出よう」
比呂子は村上に促されて、廊下からリビングを駆け抜けた。リビングの壁際には、幸三が横たわっていた。その姿を横目で見ながら、比呂子は懸命に走った。玄関には比呂子の靴があり、比呂子はそれを履くと、村上と一緒に家の外にでた。玄関のすぐそばに、車が止められていた。それは比呂子がさらわれたバンだった。
「家まで送っていくから、早く乗って」
運転席に乗り込んだ村上にそういわれて、比呂子は助手席に乗り込んだ。車は、まだ明けていない漆黒の闇が広がる林道を走り始めた。
「あんたには本当にすまないことをしたな」
村上が運転しながら、話を切り出した。村上は事業に失敗して闇金に手を出し、追い込まれたところに、幸三と省吾の針木兄弟が現れたという。言葉巧みにどんどん借金地獄へと落とされた村上は、妻と娘も人質に囚われてしまった。そして、妻と娘を返すという条件で、たまたま駅で見かけた比呂子をさらったというのだった。
「奥さんとお嬢さんは戻ってきたのですか?」
「いいや。もしかしてとは思っていたが、やっぱり二人とも省吾のやつに殺されていた。娘は省吾のなぐさみものにされ、それを庇おうとした妻が最初に殺されたそうだ。そして言うことをきかない娘をさんざんなぶったあげく、殺したそうだ」
「えええ…」
「省吾のやつの指を、ハンマーで1本ずつ潰して、全部白状させたよ」
あまりの衝撃に比呂子が唇を噛んだ。
「あの屋敷の床下に、二人とも埋められているそうだ」
村上の瞳から、涙がこぼれていた。
「もとはといえば、俺の身の程知らずから、二人をひどい目に合わせてしまった。償っても、償いきれないよね。そして何も関係ないあんたにも、凄く迷惑をかけて…本当にごめんね」
村上は声を上げずに泣き続けた。いつしか車は林道を抜けて、国道へと出ていた。

夜が明けて、あたりがうっすらと明るくなるころ、車は高速を抜け、見覚えのある街並みへと入っていった。そして比呂子が住む駅のローターリーに滑り込むと、車が止まった。
「無事についたね」
「これからどうなるんですか」
「あんたは関係ないから、どうにもならないよ。俺がやったことは、自分で始末するから心配しないでいい。あの家にあんたがいたことを知っているのは、この世で俺とあんただけだ。幸三も省吾も死んだし、あいつらは仕事に関わることは絶対他人に喋らないから、あんたがあそこにいたことや、あそこでされたことは、本当に誰も知らないんだ」
「でも…」
「俺はしゃべらないよ。というかもうすぐ喋れなくなる。妻と娘が眠っているあの家は、俺のお墓にするつもりだ。それであんたに渡したいものがある」
村上は車を降りると、荷台から大きなショルダーバックを抱えて戻ってきた。
「お詫びにもならないけど、この中に少なくとも1億円は入っていると思う。あいつらがマネーロンダリングしている金で、警察も税務署も絶対に手を出してこない金、存在さえ知らない金だ。これをあなたにあげる」
そういって村上はバッグを比呂子に押し付けた。
「いりまません。…こんなもの、怖くて受取れません」
「よく聞いてほしい。この金がなくなって困る人やこれを取り返しに来る人は誰もいない。実は同じように金の詰まっているバックが、あの家にはゴロゴロしているんだ。残りはガソリンで爆破して、家もろとも燃やすから、怪しむ人はだれもいない。だからこの金は、あんたのこれからの人生に役立てて欲しいんだ。勝手だけど、殺された家内や娘の分も、あんたには生きて、人生を楽しんで欲しいんだ」
そう泣きながら話す村上に押されて、比呂子は金を受け取った。
「銀行に預けないで、できれば貸金庫を借りて、そこに保管するといい。少しずつ使えば絶対にバレないし、人生の足しになると思う」
「これからどうするんですか?」
比呂子が聞くと、村上が寂しげに笑った。
「これであなたとは永遠のサヨナラだ。元気で…、本当にごめんね」
そういい残して、村上の車が明け方の道の向こうに消えていった。

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