つわりがようやく治まった十一月のある日、しず子は思わぬ相手から電話を受けた。
「しーちゃん、元気?」
電話の主は、ヤリマン栄子だった。
「てめぇ、ふざけんなよ。お前の嘘のお陰で、アタシは大変なことになっているんだから…」
しず子のいきなりの剣幕に栄子は驚いたが、詳しい事情を聴いて笑い出した。
「それは安全日ってことで、妊娠の可能性はゼロじゃないって言ったじゃない」
ゲラゲラ笑いながら言い訳する栄子が憎らしかった。でも、元気に立ち直っている栄子の様子は、しず子にとってもうれしいことだった。
生まれた町と母親を捨て東京に出た栄子は、遠い親戚の家にやっかいになりながら中学を卒業していた。そして驚いたことに、今や昼間はコンビニで働きながら、定時制の高校にも通っているようだった。突然いなくなったかのように見えた栄子だったが、その家出は彼女なりの計画があってのことだったのだ。
「ふーん、よかったね。…ところで栄子に頼みがあるんだけど」
栄子の話を聞いているうちにあることを閃いたしず子は、前々から考えていた計画を打ち明けた。
その夜、マサシが仕事から戻り夕食が済むと、しず子はテレビを消した。
「話があるんだけど」
しず子はマサシの目の前に貯金通帳と印鑑を出した。
「ここに三百万円ある。これはアタシが働いて貯めたお金と、お婆ちゃんがアタシに残してくれたものと、親からお祝いで貰ったお金。つまりはアタシの全財産だ。マサシ、これを全部あげるから、東京に行って」
マサシが驚いた。
「このお金を使ってマサシは東京で高校に行けよ。住むところは友だちの栄子が安いアパートを探してくれるから心配ない。それで頑張って、東大に入ってよ」
「しーちゃんはどうするんですか?」
「アタシはこの町で子供を育てるよ。もう堕ろすこともできないしね。なんとかするから心配しないで。子供のこともアタシのことも全部忘れて、マサシには人生をやり直して欲しいんだ。マサシが十八歳になるまで籍も入っていないわけだし、結婚した証拠はなにも残らない。今までのことはなかったことにするから、マサシは東京でやり直してよ」
「いやです」
マサシがきっぱりと言った。
「だめ。マサシは東京に行って、大学に入って、偉くなるの。マサシのお婆ちゃんと、アタシは約束したんだから。だからお願いだから、お金を持って、今すぐここから出て行って」
「しーちゃんは嘘をついている」
マサシが涙目になっていた。
「しーちゃんとお婆ちゃんは、そんな約束はしていません」
「したよ。マサシが知らないだけだよ」
しず子が言い張った。
「いつですか?」
「お見舞いに行った時。マサシが花瓶を取りに行った間に、お婆ちゃんとちゃんと話をしたんだ」
「嘘です。じゃあ、しーちゃんがお見舞いに来た次の日に、お婆ちゃんがボクになんて言ったか知ってますか?言ってみて下さい」
しず子が口ごもった。
「お婆ちゃんはこうボクに言ったんです。草壁さんはとっても正直で、思いやりがあって、いい人だね。マサシは頑張って勉強して、草壁さんにお嫁さんになって貰いなさいって言ったんです」
「嘘だ」
しず子が言いかえした。その言葉をマサシが遮った。
「本当です。マサシはしず子さんをお嫁さんに貰えるように頑張れって言いました。それができなきゃお前はダメだって、そう言いました」
葬儀の祭壇に飾られていたマサシの祖母のやさしい笑顔が浮かんできた。しず子は泣きそうになっていた。
「ボクがバカだからしーちゃんを悲しませたけど、結婚はできました。だからお婆ちゃんは凄く喜んでいます。ボクは絶対にここを出て行きません」しず子は唇をかみしめた。大粒の涙がボロボロ出てきて止まらなかった。しず子の後ろ側に回ったマサシが、包み込むように抱きついてきた。
「しーちゃん、お願いします。大好きだから、ずっとここにいさせて下さい」
とうとう堪え切れずにしず子が泣き出した。
「ずっとお嫁さんでいて下さい。お願いします」
マサシは耳元で何度も囁くと、しず子の顔を奪うように自分に向けさせた。そして涙でぐしゅぐしゅになったしず子に、キスの雨を降らせた。しず子は堪らなくなってマサシに抱きついた。そのまま二人は絨毯の上で折り重なった。マサシがしず子を思い切り抱きしめた。
いつのまにか成長して逞しくなったマサシの胸の中で、しず子は思い切り泣き続けた。
十二月に入るとお腹がぽっこりと膨れてきて、しず子はその中で時々暴れる新しい命を感じるようになっていた。
背の高いしず子は、体質なのか、それほどお腹が大きくならなかった。ゆったりとしたジーンズのオーバーオールを着るようになったしず子は、見た目はちょっと太ったという感じで、妊婦らしくは見えなかった。しかし新しい命は着実に育っていたのだ。
つわりと栄子の一件以来、二人の仲は、少しは修復していたが、甘い新婚生活とはほど遠かった。しず子は必要なこと以外喋らなかったし、マサシもそれに答えるだけで、相変わらず布団とベッドに離れて寝ていた。
そんなある晩、寝ていたしず子は変な物音で目が覚めた。暗闇の中で耳を澄ませると布団を擦るような物音が、マサシが寝ている方向から聞こえてくる。不審に思ったしず子はこっそりと寝返りをうってマサシの方を見た。きっちり閉めたはずのカーテンが細く開いていて、外灯の光が漏れていた。そのわずかな光の中で、マサシの掛け布団がごそごそと動いているのが分かった。どうやらマサシは起きているらしく、布団の中から顔だけを窓から漏れる明かりに向けるようにして、何かを読んでいるようだった。
こっそりと起きあがったしず子は、音も立てずにマサシに近づくと、いきなりマサシの掛け布団を剥いだ。
「わっ」
マサシが驚きの声を上げた。しかしそのマサシの恰好を見たしず子はもっと驚いた。
「マサシ、なにやっての」
マサシは雑誌を片手に持っていた。しかもパジャマのズボンとパンツが膝まで下がっていて、下半身が丸出しになっていた。
マサシは慌てて雑誌を放り投げると、パジャマのズボンごとパンツを急いでずり上げた。
しず子は部屋の灯りをつけ布団の脇に座ると、マサシを睨みつけた。
「ごめんなさい」
反射的にマサシが謝った。
「なにしてたか、言ってみて」
しず子はマサシを睨みながら、低い声で問いただした。マサシは真っ赤になって黙り込んだ。しず子はマサシが投げた雑誌を拾い上げ、マサシの目の前で開いた。それは水着や裸の女の子がたくさん載っている男性向けの写真雑誌だった。
「言いなさいよ。それともアタシに言えないことをしてたの?」
「……」
「ちゃんと言いなさいよ。アタシに言えないエッチなことしてたでしょ」
「しーちゃん、ごめんなさい。ちょっと寝つかれなかったから…」
ようやくマサシが認めた。
「ふーん、マサシは眠れないとこういう雑誌を見るのかよ。どこを見てたんだよ?」
しず子が雑誌を押し付けると、マサシが渋々とあるページを開いた。そこにはテレビによく出てくる巨乳で人気のグラビア・アイドルが載っていた。しず子のようなショート・カットのアイドルが、小さなビキニで隠したメロンのように大きな胸を両腕に挟んで寄せ上げ、水着で絞り込まれたむっちりとした股間を開いて挑発していた。
「アタシがつわりで苦しみながら、ご飯作って、お掃除して、洗濯しているっていうのに、その間にマサシは隠れて何をやってんだよ」
「ごめんなさい」
「正直に言いなさいよ。今日が初めてじゃないでしょ」
観念したマサシが、ボツボツと喋り出した。働き始めた頃は、仕事がきつくてすぐに寝つけたが、身体が慣れてきた十月の始めから、夜にムラムラして眠れなくなったということだった。
「我慢していたんですけど、ついしました。これ以上我慢するとパンツを汚して、しーちゃんに見つかると恥ずかしいので…」
(コイツは何を考えてんだよ)
しず子は呆れかえった。
「情けない。本当にマサシは情けない男だね」
「ごめんなさい」
「二度とこんなことしないで。パンツを汚してもいいから、絶対にしないでよ」
「はい」
しょげてうつむいているマサシが返事をした。
しず子はマサシから雑誌をとりあげると、マサシの開いたページを改めて眺めた。
「マサシはこの女が好みのタイプなの?」
「はい」
「し-ちゃんのことが大好きだとか言っときながら、実はこういうのがタイプなんだ」
「でも、しーちゃんに似てますよ」
「似てないよ、バカ野郎」
しず子は雑誌をマサシに投げつけると、電気を消してベッドにもぐりこんだ。
「マサシの嘘つき。アタシのことが好きなんて大嘘じゃないか」
「嘘はついていません。しーちゃんの写真は持っていないので、似ている人を探したんです」
しず子は、勢いよく起きあがった。
「ふざけんなよ。じゃあ、アタシの水着の写真があったら、マサシはそれをみながらするのかよ」
「もちろんです。あるなら下さい」
「バカ、そんなもんあるわけないだろ」
「すいません。だったら洋服の写真でもいいんですけど」
あまりにもバカ正直なマサシの受け答えに、しず子は怒るのがアホらしくなってきた。
「今日まで毎日やってたの?」
「いえ、五日に一度くらいです」
「それはその女の水着姿が見たかったからじゃなくて、本当に我慢できなかったからなの?」
「はい」
「頭の中では、アタシの裸を想像していたの?」
「もちろんです」
マサシが明るく答えた。
(まったくしょうがない奴だな)
意を決したしず子はベッドからおりると、マサシの掛け布団をいきなりはぐった。
「動くな。気をつけ、をしろ」
マサシが寝たまま、気をつけの姿勢に固まった。しず子はマサシのパジャマのズボンをつかむと、一気に引き下ろした。
「あっ」
驚くマサシを無視して、しず子はマサシを握りしめた。それはすでに固く張り詰めていた。しず子はいきなりそれを口に含んだ。
「ああっ」
マサシがうめいた。しず子は構わず唇で締め上げると顔を上下に動かし、唇を使ってしごき始めた。舌を巻きつけるように吸い上げてやると、マサシがぴくぴくと腰を震わせるのが分かった。
(こんなに固くなってる。マサシのバカ)
しず子にとっては初めての経験だった。しかし不思議に嫌悪感はなかった。それより自分以外でマサシが出そうとしてことが腹立たしく、あのグラビア・アイドルからマサシを取り返してやりたいという気にすらなっていた。マサシのわかりやすい反応から、マサシが喜ぶやり方はすぐに分かった。しず子は捏ねるように舌を使いながら、いやらしい音を立ててマサシをしゃぶり続けた。
「うああああっ」
ついにマサシがうめくと、身体を震わせてしず子の口の中に放った。しず子はそれをごくりと飲み込んだ。
「すっきりした?」
口を拭いながらしず子が聞くと、マサシがコクリと頷いた。
「じゃあ、もう寝な」
しず子はそういうとベッドに戻り、布団にもぐりこんだ。
「しーちゃん」
「なに?」
「飲んじゃって、大丈夫ですか?」
「平気だよ。…マサシのだから」
「ありがとう。しーちゃんのこと大好きです」
「バカ。早く寝ろ」
(なにが大好きだ。現金なやつだな)
そう思いながら、しず子は考えた。
(一緒に暮らすようになってから、そういえば一度もエッチしていないな…)
マサシが少しかわいそうな気がした。しかししず子は妊娠しているので、そういう気分になれないのだ。
(そういえば、マサシはアタシの下着を盗み見していたよな)
しず子は思い出した。それはある日曜日の昼下がりのことだった。洗濯を終え、風呂掃除を片付けたしず子が寝室に戻って来ると、マサシが縁側にぼんやりと座っていた。よく見ると、マサシは干したばかりの洗濯物を下からのぞいているのだ。しず子は自分の下着は必ず隠れるように干し、取り込んだ後もマサシに見られないように素早くしまうようにしていた。裸や下着をマサシに見られるのが、しず子は恥ずかしかった。しかし、工夫して干した下着も、縁側で下から眺めるとまる見えになる。しず子は慌ててマサシに駆け寄ると、頭をぽかりとはたいた。
「こら、見るんじゃない」
「ごめんなさい」
ばつの悪そうな顔をして、マサシがあやまった。
思えばあの頃から、マサシはムラムラしていたのかもしれない。
(男って本当にバカだ。でもかわいそうなことしているのかもしれないな。よし、これからは五日に一度、必ずやってやる)
しず子は心に固く誓った。